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ミャンマー周遊6日間の旅を催行(広島営業所)

  1月26日(月)~31日(土)の日程で、ミャンマーへ世界三大仏教遺跡のひとつバガンと日本人追悼の碑が残るマンダレー、風光明媚なインレー湖を訪ねる6日間の旅を催行させていただきました。

旅を無事終え、新幹線で広島に向かう帰り道中、「ミャンマーは民主化以降は治安は大丈夫ですよ。多少、国境地帯で少数民族とのいざこざはあっても、今は問題ないです」と言っていたのに、2月9日のニュースで緬中国境で紛争のニュースが入ってしまいました。

 

外国人立ち入り禁止区域であり、外務省の安全情報にも特に変化はないようではありますが。治安に関しては、特に昨今は、これまでの常識だけでは足りないと、あらためて思わされました。

 

 

今回紛争が起きたのは、中国雲南省に隣接するシャン州コーカン自治地帯という地域だそうです。外国人立ち入り禁止区域ですが、この地域については以前、高野秀行さんの著書『アヘン王国潜入記』を以前よんだことがありました。

 

 

著者が95年から約7か月、反政府ゲリラ・ワ州連合軍の支配地区(コーカン自治体の南隣)に滞在し、自身が軽いアヘン中毒になりながらの突撃体験レポート。大国に翻弄されながらも逞しく生きる少数民族の目線も描かれており、日本ではなかなか知りえない面白い内容で、おすすめです。以下は、アヘン王国潜入記、および他の資料からの情報。

①ミャンマービール②空港バス②国内線

 

 

 

 

 

 

 

 

・コーカン人とは実は漢民族のこと。世界で唯一、中国人が華僑でなく他国の少数民族として存在する土地。

 

・1970~90年まで、この付近は中国が全面的にバックアップするビルマ共産党の支配下にあり、その下でアヘン生産が一層奨励されてきた。ちなみにイギリスからの独立後、いったんソ連に頼ったミャンマーだったが、1970年代より、中国寄りへ外交政策を転換した。

 

・シャン(シャムの意味)人はビルマ族より北部タイとの関係が強かったが、イギリスの民族対立を煽る植民地政策(分断統治)の国境線引きでミャンマー側へ入ることになり、案の定ビルマ族との民族対立を深めていくことになった。

 

※元は少数のビルマ人イスラム教徒も共存していたが、イギリスの政策でインドからインド人イスラム教徒が強制移住させられ、現在までビルマ族との関係は良くない。

⑤せとうちバス④ホテル百万石③踏切

 

 

 

 

 

 

 

 

 

・ワ州とはシャン州のなかにありながらミャンマー政府の権限が全く及ばない反政府ゲリラの支配地区で、90年代まで世界最大のアヘン生産地といわれた“ゴールデントライアングル”のなかでもケシ栽培の中心地だった。

 

・アメリカは、ミャンマー隣国のラオスが1975年に社会主義国となるまで、ラオス国軍の全予算を出していた。アメリカは国境付近の少数民族にケシ栽培を奨励、それを安価で買い入れてヘロインを販売して軍資金にし、同じ少数民族を対ベトナムの反共ゲリラ兵士として利用し、莫大な犠牲者を出した。ベトナム撤退の際、置き去りにされたラオスのゲリラ兵は、共産政権側の兵士に多数処刑されるという悲劇があった。

 

※歴史はさらに複雑で、世紀の大虐殺を行った共産主義とされるポル・ポト政権は、実はアメリカやイギリスから武器や軍事訓練、資金面での支援を受けていた(ベトナム政権打倒のため)。BBCがドキュメンタリー報道番組で取り上げ、知られるようになった。所詮イデオロギーなどは二の次か…。

 

何事も裏表がありますが、少数民族からみた“表の歴史”は、世界ではいつも“裏の歴史”になりがち。日本人が少数民族の目線になれるわけもないので、普段気づけない視点で描かれている、高野さんの本は、いつも結構楽しませてくれます(2冊しか読んでませんが)。

 

②タナカっ子②タナカ②タナカ2

 

 

 

 

 

 

 

 

前置きが若干長くなりましたが、本題に戻ります。

早朝、広島駅に集合。駅は5時20分からの開場で、改札がオープンする5:30頃には、広島駅弁が営業開始してくれています。始発の『のぞみ号』を利用して関西空港へ。

 

ベトナム航空は、行きはチェックイン時に搭乗券を2枚受け取ることができました。1年前、同じくハノイ経由でラオスのビエンチャンまで利用した時は、乗り継ぎ便の搭乗券はハノイ空港のカウンター受取でしたが、便利になったようです。約5時間30分のフライトで、ハノイ空港に到着すると、新空港が完成していて1年前とは随分あかぬけた空港になっていました。調べてみると、“2014年12月31日 第2ターミナル運用開始。

円借款によって大成建設が受注した”とあり、まだひと月も経っていない新ターミナルでした。

 

これは免税店でのショッピングにも期待が…と思いきや、あまりのお店の少なさに度肝を抜かれ、またレストランはカフェが数件あるくらいだったのでした。

おそらくまだこれからなのでしょう。1年後に期待。

 

約2時間半の乗り継ぎで、ヤンゴンへ。ヤンゴンの入国手続きは簡単で、荷物もスムーズに出て、タッチダウンから30分弱で、税関を抜け、この旅のガイド・アウンチョーさんにお出迎えいただきました。

 

 

日本の観光バスに乗車し、先ほど機内食を食べたばかりですが、市内レストランでミャンマー料理の夕食を済ませ、宿泊地のセドナホテルへ。

 

ミャンマー料理の二大特徴が“油っこい”“辛い”と聞いて恐れているお客様もいらっしゃいましたが、辛さは品によります。やはり油は多く、インドとタイと中華をミックスしたような感じでしょうか。

②バガンタワー②バガン眺望2②バガン

 

ところで、ミャンマーはイギリスの植民地だったのに、車は右側通行。独立後、右側通行に変えたそうですが、地名を元の名に戻すことはよくあっても、車の通行を変えるのは、他では聞いた事がありません。

それに、右側通行なのに、これまで車はほとんど右ハンドルの日本車が主流だったというのも珍しい。

以前、沖縄が本土復帰する時、夜中の12時を境に右から左側通行にチェンジしたら、事故が続出した?という話を聞いたことがありますが、沖縄もミャンマーもその頃はそんなに通行量も無かったんじゃないか?とも。

ミャンマーでは、徐々に左ハンドル車が増えてきているそうです。

 

ミャンマーは2006年に突如、遷都したため、ヤンゴンは首都から第一の都市となりました。民主化したとされている2011年以降、日中のヤンゴンは、大・大渋滞の街になっていました。

この遷都の原因も謎で、なかには“占い師の助言説”まであるそうです。それは都市伝説としても、首都を内陸部に持っていくのは珍しいのでは?と思いました。古代の国家をみると、日本でもそうですが内陸部の天然の要害のような盆地に都が築かれたことが多いように思います。それがどんどん時代を経るにしたがい、目線が外との交易に向かってゆくのか、海に近いグローバルな時代に適した位置に、首都が置かれるようになってきたように思っているのですが…。

 

そういえば、ミャンマーは国名もビルマ→ミャンマーに変更しました(文語体か口語体かの違いだけで、どちらもビルマ族の住む地域を指すらしい)。

独立後、国内ではビルマ語のミャンマー、国際的には英語名のビルマだったのを、1988年に軍事政権下となって以来、国際的にもミャンマーと変更したそうです。

今日から「ジャパン」をやめて、「ニッポン」1本でいく! というような感じです。

 

1970年代より、ミャンマーは、江戸幕府がオランダとのみ通商していたように中国頼みの鎖国外交に陥り、ついに行き詰って2011年の民主化に至ったのでは?と個人的には思いました。

 

しかし、アジアにおける中国の影響力は年々増大しており、ラオスやネパールでは、近いうちに中国からの鉄道がつながるそうです。インドの影響が圧倒的ではありますが、ブータンでも多少、中国の影響が増大している傾向が見られました。

 

なお、民主化後のミャンマーで、日本企業は確か約280社くらいに増えた(それまで60社くらい)そうです。日本や日本の企業も、もっと影響力を増大していくことは間違いなさそうです。

 

 

2日目、早朝にホテルを出て、ヤンゴン空港から国内線プロペラ機(70人乗り)にて、ニャンウー空港へ。ミャンマー語には、“ミャン”や“ニャン”がよく出てきます。

 

まずは2002年に完成したバガンタワーから世界三大仏教遺跡バガンのパゴダ群を眺めました。エレベーターがあるので、楽ちんに絶景を楽しめました。

 

続いてニャンウー・マーケットを散策。ここから草履に履き替えて、なかには、巻きスカート「ロンジー」を着用して、顔には日焼け止め「タナカ」を塗り、早くもミャンマー人になったお客様も。

 

その後、パゴダ群を見学。午前は、シュエジーゴン・パゴダ、ティーローミンロー寺院、ダビィニュー寺院と日本の弓部隊慰霊碑を参拝。僧侶から少し御話しをしていただきました。戦後、寺院の僧侶が隊員の願いを受け入れて、慰霊碑建立にご協力下さったそうです。ミャンマーに来ると、決して遠い国ではない感じます。

②パレード②②弓部隊碑

 

 

エーヤワディー川(イラワジ川)の畔のレストランで昼食。モンドセレクションを何度も受賞しているという「ミャンマービール」を堪能。メニューは中華でしたが、ミャンマーの中華は、かなり郷土料理寄りにグイッと引っ張られているような、中華です。

 

午後は、漆工房でショッピングの後、ホテルで短い休憩をとり、再びパゴダ群見学・アーナンダ寺院、ダマヤンヂー寺院、シュエサンドーパゴダに登って、沈みゆく夕陽のなかパゴダ群を眺めました。

 

馬車に乗ってレストランへ。ミャンマーの操り人形ショーと民族舞踊を鑑賞しながら、郷土料理の夕食。

②タ②タ2②バガン夕景

 

 

 

②バガン夕景3②バガン馬車

 

エイヤー・リバービュー・ホテルに宿泊。雰囲気は悪くないと思いますが、バガンのホテルはやはりお湯の出が悪いです。

 

 

 

3日目も早朝発、ニャンウー空港より、約50分遅れで空路、マンダレー空港へ。

 

古都アマラプラのマハーガンダーヨン僧院を訪れ、僧侶の食事風景を見学。その時、境内の寄進を記載したボードに「BS KANKO GROUP」の文字を発見!

 

③マハーガンダーヨン2③マハーガンダーヨン3③ウーベイン橋

 

その後、皆様のご寄進をお食事中の高僧にお届けしました。 ウー・ベイン橋を見学後、アマラプラを後にして、激戦地でもあったザガインへ。

 

レストランで郷土料理の昼食後、トラックの荷台に乗って、ザガインヒルへ登りました。頂上の寺院を参拝中、3人の尼さんに出会い、写真を撮らせていただきました。アウンチョーさんによると、彼女たちは“尼僧”ではなく、“尼さん”であるとの事。戒律の数の違いなんでしょうか? 何度聞いても“尼僧”と“尼さん”の違いがよくわからないまま出発。

③尼さん③ネオン光背③慰霊碑③慰霊碑3

 

ザガインヒルに建てられた日本軍の慰霊碑へお参りしました。いくつかの舞台の碑が並んで建立されており、ミャンマー人女性が、箒で掃いてくれており、どこもきれいにしてくれていました。

 

 

ザガインを後にして、マンダレーへ。マンダレー最大のマハムニ・パゴダを参拝。見事な木造建築シュエナンドー僧院見学。

 

 

 

2013年、富士山と同じ年に世界遺産に指定されたクドードォ(功徳)・パゴダを参拝。こちらは、第5回目の仏典結集が1860年(1871年?)に行われた寺院で、その時に編纂された教典が、729の大理石に刻まれて残されていました。ちなみに、第6回もミャンマーのヤンゴンで1954年に行われたそうです。

 

アウンチョーさんによると、仏典結集は上座部で行われてきたもので、大乗仏教では行われていないとのこと。第2回目、ヴァイシャリの結集の頃に大乗と上座部に分裂が起きたとされているそうで、分裂というとマイナスイメージも強い言葉ですが、必ずしもそうでなく、この分裂が起きていなければ、日本へ仏教が伝わっていなかった可能性も強いんじゃないか?と思ったりします。

“発展・進化の大乗” “原点回帰の上座部” と単純に言えるものかどうかわかりませんが、東南アジアの上座部と日本の各宗派が交流する活動も時々行われていることなど、双方にとって大事な活動かも知れません。

なお、東南アジア=上座部仏教と思い込みがちですが、古くは東南アジアだけでなくスリランカでも大乗仏教が栄えた時代があったそうです。

③マハムニパゴダ③僧院③クトードゥパゴダ2③大理石のご本尊

 

この日最後、800トンの大理石でつくられた御釈迦様を安置するチャウットーヂーパゴダを参拝。

 

参道で、気になる子供用の人形を見つけました。これは可愛い!とミャンマーっ子は喜んでくれているんでしょうか?

しかし、商品化されているため、専属デザイナーがカラーリングなど何度も試行錯誤を重ねたものでしょう。 実用的な帽子も発見!

③人形③バナナ帽

 

 

レストランで雲南鍋の夕食をいただき、セドナホテルへ。

 

 

4日目も早朝発、マンダレー空港へ向かう途中、コーヒーの看板を見かけました。ミャンマーのコーヒー産地は、マンダレーから約80㎞にある「ピンウーリン」と、チン州だそうです。ちなみに「タナカ」の本場はザガイン。

 

約1時間でマンダレー空港着。国内線で、ヘーホー空港へ。

 

ヘーホー空港の辺りは、標高約1,000mで朝晩は2~3℃くらいまで下がるとの事。バスで約1時間、ニァゥンシュエというインレー湖の船乗り場の町に到着。

 

途中、市が開かれていたタウンジーの町は、日本軍が一時期滞在して、学校なども作っており、慰霊祭が行われたこともあるそうです。

 

細長いボート2艇に乗り込み、インレー湖観光へ出発。

④インレー3④インレー4④インダー族の漁④水耕栽培

 

細長い水路を進むと、やがて広大な湖に出ました。するとインダー族に漁師が足でオールを漕ぐようにして現れて、独特の漁法のポーズをとって、写真を撮らせてくれました。これは観光用ですが、少し離れたところでは、実際に漁が行われていました。水耕栽培の畑と、畑に乗せる草を運ぶ舟ともすれ違いました。インレー湖はとても風光明媚な光景を楽しめる、おススメの観光地です。

 

 

約40分後、寺院に到着。640本のチーク材で支えられた湖上に浮かぶお寺、ガーペー僧院を参拝。かつては猫寺院と呼ばれ、猫の輪くぐりなどが見られましたが、欧米の動物愛護団体からクレームがついてやめたそうです。

 ④蓮から糸を紡ぐ④水上寺院④ご本尊④猫寺院2

 

湖上のレストランでインダー族料理の昼食。午後、織物の村を訪ねましたが、蓮の茎から糸を紡いで作られた製品も売られていました(かなり高価!)。

 

 

午後、巨大な水上寺院ファウンドーウーパゴダを参拝。こちらでは、金色の鏡モチのような不思議なご本尊が安置されていましたが、ご本尊のそばへは男性しか入れず、これには女性陣からは少々ブーイングでした。

④インディン遺跡2④湖畔のパゴダ群首長族

 

その後、1000以上の仏塔が並ぶインディン遺跡を見学。ゆるやかな坂道の参道を20分少々歩きましたが、商店街となっているため、疲れ半減でした。

 

 

この日の最後は、伝統を守る首長族の皆さんと記念写真を撮って、ボートで湖上ホテルへ。

④インレー湖洗濯④インレー湖の夕景④ホテルチェックイン⑤タウンジーマーケット

 

夕焼けに、たくさんの小舟が行き交い、ウミドリ?がボートの上を飛び交いながら、時々糞を落としてきます。湖畔には、ススキのような植物が生い茂っていて、夕陽に映えました。遠くには火事か?と思う大きな火の手があがっていましたが、後から聞くと焼き畑でした。インレー湖は、情景豊かで本当にきれいです。

 

 

しばらく走ると湖上にトレジャーリゾートホテルの入口が出現。スタッフがボートに乗り込んで、足で漕ぎながら玄関までボートを誘導し、若いスタッフ達がウェルカムドリンクで迎えてくれ、ポーターさんが手際よくトランクをあげてくれました。

 

最後の夜は、ギター弾き語りをききながらシャン料理の夕食。途中からミニダンス大会にも発展。カナダ人ダンサーともダンス対決をしました。

 

 

5日目も早朝に舟で出発。朝もやのなか、特に前のお客様は軽く水しぶきを浴びながら、かなり寒い出発でした。ニャウンシュエから1日ぶりに地上に上がると、懐かしの「せとうちバス」が出迎えてくれました。

 

 

空港へ向かう途中、シャン州の州都タウンジー(標高1400m)でマーケットを散策。高級食品・赤いバナナを買いました。

 

 

ヘーホー空港から、空路ヤンゴンへ。

⑤寝釈迦1⑤寝釈迦3⑤スーチーさん宅⑤アウンサンマーケト

 

巨大な寝釈迦仏を安置するチャウットージーパゴダを参拝。以前は涅槃仏と思って、何で涅槃に際してあんなにオメメパッチリなのか?首を持ち上げ過ぎでは?お化粧されているのでは?等々勘違いしていましたが “寝釈迦” は “涅槃仏” とは違うそうで、寝ているときでも、いつでもお弟子の質問にお答えになられるということを表している?という説明でしたが、私はあまりピンとはきておりませんが、そういう話でした。

それにしても、まつ毛の立ち具合も気になります。どうしても三輪明宏さんを思い出してしまいます。

寝釈迦というのは、タイにはあったように思いますが、その他の上座部国でも聞いたことがないような?パソコンで調べても、寝釈迦=涅槃仏と出てきますが、目が空いている場合は、涅槃に際してお弟子に最後の説法をされているお姿だという説明があり、こちらのほうが何となくシックリくるような…。

 

どちらにしても、この美しい寝釈迦のお姿と、ピカピカのネオンサインのような光背、仏様の表情の多彩さはおそらくミャンマーオリジナルでは、と思います。

 

 

レストランで飲茶の昼食後、午後の観光に向いますが、とにかく大渋滞。残念ではありますが、シュエダゴンパゴダを車窓として、アウンサンマーケットに1点集中で時間を費やすことにご了承いただきました。

 

マーケットでは、熱い戦いを繰り広げられたお客様もいらっしゃいましたが、皆様多少なりとも収穫があったようです。

 

車窓からアウンサン・スーチーさんのお宅や、5年に1度の金箔張り替え中のシュエダゴンパゴダを眺めながら、空港へ。今年の貼り替えは、中国の企業が落札したそうで、国外の企業がミャンマーのシンボルともいえるこのパゴダの金箔を貼り替えるのは、史上発だそうです。

 

マーケットから約1時間、途中、渋滞にヒヤヒヤしましたが無事空港に到着。アウンチョーさんともお別れとなりました。

 

短い間でしたが、アウンチョーさんの優しい人柄は皆さんに伝わっていたように思います。

 

初めてミャンマーを訪れた98年だったか、サンサン・ユーさんという人気女性ガイドさんが案内してくれました。

旅行中、お客様が風をひいて熱を出した時、自分の弟が医者だからと電話で呼び出しました。その夜、弟さんがホテルに現れ、診察をして薬も処方して“もう大丈夫!良かった”とお金もとらずに帰って行きました。

同じような体験をした日本人は多いようです。アウンチョーさんは、ユーさんと知り合いとの事でした。

 

海外でたまに出会える、何か昔、近所や親戚にいた兄ちゃん、姉ちゃんのような、何処か妙に懐かしいような気持ちにさせられる人々は一体何なのか?

一昔前の日本にタイムスリップ出来るているようなものかも?知れません。

またアウンチョーさんに会いたいと思わされました。

 

アウンチョーさん、お別れの挨拶はあっさりでしたが、最後は、あきれるくらい、最後の最後まで見送ってくれました。

 

 

ところで、ヤンゴン空港では、チェックイン時に搭乗券は1枚だけしかもらえず、ハノイ空港でカウンターに並んで帰国便の搭乗券を受け取りました。パスポートをEチケットは添乗員がまとめて提出でOKでした。

 

ヤンゴン空港では、日本ではまず手入らない幻のミャンマーワインを購入しましたが、ハノイ乗換えでも大丈夫なようにパックしてくれ、無事日本へ持ち帰ることができました。

⑥幻のミャンマーワインミャンマーワインの産地はインレー湖周辺。お客様への評判は、ちょっと首をひねられました。が、帰ってよく味わってみて、そんなに悪くないと思いましたが…。ミャンマーを訪れる方は、是非おためし下さい。

 

この度も、皆様の御支援をいただきまして、旅を催行することができ、厚く御礼申し上げます。

国内線が朝便のため、毎朝早朝出勤となってしまい、お疲れになったことと思いますが、どうぞこれに懲りずまたご利用下さいますようお願い申し上げます。この度も誠に有り難うございました。

 

 

添乗員 佐古田寛太